港南労働運動

港南労働運動から学ぶ 第四回

 (1)総括と教訓

①消費組合の運動で知り合った信頼できる労働者を通じて職場の中で影響力のある熟練工を獲得した

②機関紙やニュース、ビラなどの印刷物を一切つくらず、もっぱら口コミによる宣伝・煽動に終始した

 「弾圧にたいしてそれをはねかえすだけの組織の力をもたねばならんと思っていました」

 和田の公判記録が示している。和田四三四さんは獄死しています。

 港南の活動家のほとんどが弾圧の犠牲とはならず、戦中ほとんどが職場に残っていた。

 これらの人々が戦後の大阪の金属再建の礎となった

・日本鋳鋼所の例

・伊藤国治の例(総評金属機械大阪地本委員長)

③マルクス主義の核心である労働者階級自己解放の思想を、実生活に根ざした具体的な課題と取り組む大衆行動の過程で貫徹した極めてまれな実例。 

 参加した労働者が自らの運動と意識していたことの大きさ。

 まさにランク・アンド・ファイル!

 偉大な先達者を追悼!しぶとい港南の労働者たちに乾杯!

 やっとブログに色がつきました。

 どこかに1930年代の大阪港南の労働運動のフイルムが残っていないかな。

 興味がわいてきた人は、大阪中央図書館の大阪コーナーの労働運動年鑑などに資料があります。

 MTBおじさんがコピーしています。よかったら読んでください。

 原 全五さん(大阪砲兵工廠に赤旗をたてた共産党の労働者党員)や吉見光凡さんは運動史研究などで座談会しておられるのでまだご存命かも。

ぜひ直に話を聞きたいですね。そしてその経験を継承したいですね。

では今日も ブログ連続して更新 いつまでつづくか おやすみなさい

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港南労働運動から学ぶ 第三回

 9条を変えるなの弁天町駅前での署名は本日は10筆。

 わたしはまったく取れませんでした。トホホ・・・

 友人がイラクに派兵したと署名をしてくれた人の話。

 派兵要員を選抜するときは、妻帯者ということがポイントだったとのこと。

 家族持ちならイラクで無茶な行動をしないだろうから ということらしい。

 現地ではいつロケット弾が飛んでくるかと、とても不安だったと打ち明けられたそうな。

 自衛隊員とイラクの人の殺し合いにならないようにと願っていた。

 戦争反対、9条を変えたらだめだと自分から近づいてきて署名してくれた。

 すこしづつだが弁天町の駅前は、9条を変えるなの交流の場となってきていると感じます。

 港南労働運動から学ぶ 第3回

 (1)吉見と和田はどういう運動をはじめようとしたのか

 ①当時の共産党ー全協の方針は

  ⅰ)職場闘争から街頭カンパニアへ  武装メーデー事件など

  ⅱ)赤色労働組合主義と革命的反対派戦術(革反)

 ②吉見と和田は

  ⅰ)従来の革反のように、ある組織に潜り込みその一部を削り取って全協にくっつけるというセクト主義的なやり方ではなく、「組織の中で一生懸命頑張って、その組織を正常なものにし、その全体を革反として築き上げていく」という方針で活動を開始。

  ⅱ)「ダラ幹排撃」というスローガンのもとに闘いを組織するのではなく、「エライさんの言うことなんか聴く必要はない、自主的に何事もやっていくんだ、運動を自主化していくんだ」と労働者をオルグ。

(2) 1934年9月室戸台風

 大阪一帯水びたしとなり、何ヶ月も工場が動かない。

 風水害救援活動で

 ①職場でー自分が働く工場に救済を要求

 ②地域でー救援物資の自主的配分を目標にした署名活動

 ③地域の労働者の絶大な信頼を獲得

 ④労働者自身が企業やナショナルセンターの違いを越えた強固な連帯感を持つようになった

 ---工場代表者会議が労働者の発意で開催された

(3)1934年7月大阪機械工作所争議支援

ーー総同盟の組合の争議に、全労に応援委員会が発足

(4)労働問題研究会の発足

全労の常任書記 伊藤国治。結城磯二。山下栄吉(大阪製鉄)。近藤元治(戸畑鋳物)ら

総同盟 押谷常七、田中常七(恩加島支部長)ら

講師は笠 信太郎 関大講師・辰巳経世など

ここに参加したメンバーが合同促進協議会の中心となる

【2】全労・総同盟合同促進協議会の活動

(1)1935年4月10日に結成

 ①10数工場の職場代表80名が結集。組織人員15工場4680人。

 ②規約・声明(吉見作成)

 ③上部団体への会費納入凍結・保管

 ④5月1日統一促進協主催メーデー

 1万人ちかい労働者のデモ(この年の全国のメーデー参加者数が2万3750人)

(2)全国への波及

 ①大阪全市への拡大

 ②東京への波及

 ③「反ファッショ全国合同」実現一歩手前まで

 ④1936年 総同盟と全労が合同 全日本労働総同盟(全総 9万5千人)結成

 つづく

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港南労働運動から学ぶ 第二回

(2)軽工業労働者と重工業労働者の運動の運動の違いについての歴史的背景

 労働運動のための留意点

①金属工業の労働者は紡績などの軽工業と異なり、技術的にも高度の熟練を必要とするものが多く、技術的にも意識の上でも「近代性」=組織(的連関)性が要求される。

②労働現場だけでなく、紡績工場の「女工さん」は全寮制で軟禁されていたから、各工場ごとに孤立してお互いの交流も難しかった。しかし金属工業の労働者は職工学校の同窓生どうしの交流もあるし、お互いの情報も交換される。

③また金属工業の労働者は成人の世帯もちが圧倒的であるから、労働組合や地域の消費組合でも永年の古い活動家が多い。

④こうした金属・機械工業労働者のありかたが、団結を強固なものとしたし、軽工業の前近代的な経営と一体のものとして生み出されてきた封建的な職場・労組の労働ボス支配(「清水の次郎長の昭和版といわれた)は通用しないものとなっていった。

(3)港南労働運動にいたる港南地区の労働運動・労働争議について

①1933年の大阪鉄工所争議

 ここは全労でした

②1934年大阪機械工作所争議

 ここは総同盟です

③その他の総同盟・全労傘下の組合の争議が激発していました。

(4)2人の共産党多数派の活動家 吉見光凡(みつひろ)と和田四三四

 ①吉見は党員です。1910年生まれ。同志社をでて京都の消費組合で常任書記として活動していました。

 共産党{多数派}という分派に所属していました。

 1934年初頭から共産党港南地区オルグになりました

②和田は党員ではありませんでしたがこの過程で入党しました。

 1910年生まれ。当時25歳です。若いですね!

 全労港南支部連常任書記を経て全労の組織をほとんど網羅して港南消費組合を創設しその書記となりました。

 ③二人は1934年3月に初めて接触し、討論を重ね、運動の状況と方向性についての認識が一致していることを確認しあいました。

(5)共産党「多数派}について

①1934年3月末「最近における一連のテロルに関し『党中央委員会』の指導に対するわれわれの態度につき声明す」  『多数派」第一次声明

②5月第二次声明

「日本共産党中央奪還全国代表者会議準備委員会」結成

③1933年はじめに発覚したスパイM問題・その後の「リンチ」事件。党員再登録運動がおこなわれていました。

④「党内の正規のルートを通じて意見を進言すれば、それがかえって疑惑を深め、うっかりすると挑発者のレッテルをはられて査問されかねない。」(宮内勇)

⑤声明は 「4人の中央委員会のうちの2人がスパイならば中央の責任はどうなのか

 自己批判と今後の基本政策を公表せよ」

 街頭主義・セクト的極左主義・官僚主義・機関紙の公式的命令調。

そのなかで培われてきた党員全体の低い政治水準

これがスパイの温床となっているのではないか との鋭い告発でした。

 *当時の共産党の実態が公安の記録に残っていますが

1932年から33年にかけて東京・神奈川で逮捕されたもの480人

76の細胞がありそのうち「危険な」街頭細胞は35、内実は朝鮮人党員だったようです。

戦時下 危険な任務をになって革命の旗を守り抜いた朝鮮人党員をどうして共産党は戦後しばらくしてきりすてたのか 許しがたい! 

⑥「多数派」を支持したのは残存党組織の殆どでした。

 関西地方委員会。東京の江東地区委員会。全協関東地区フラク。日消連フラク。

 全農全フラク。赤色救援会。

 東京・神奈川・京阪神・青森・秋田・山形・宮城・福島・茨城・群馬・埼玉・広島などで党再建委員会が組織の再建をこころみていました。

(5)二人はどういう運動をはじめようとしていたのか

乞うご期待。明日の仕事にさしつかえるので。

仕事が終わったら梅田の陸橋で国民投票法案成立弾劾の街宣だ

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港南労働運動から学ぶ 第一回

2005年3月の関西での労働運動研究学習会の内容を一部公開します。

レポーターはYMさん

何を学んだのかといえば 革命の主体は労働者階級そのものだということです。

労働者階級のうえにそびえたつ党ではなくて、党は労働者階級のなかにあるということです。

党の構成が労働者党員99人、インテリゲンチャ1人くらいになった時、はじめて党は労働者階級の党といえるし、革命情勢にたいして感受性というか柔軟性ももてると思うのです。

学生運動からはじまった現実はある。

でも労働者階級のたたかいはいつも存在する。

民主労総のようにそこにとびこもう。

われわれになにもないわけではない。

総評労働運動がこの危機の時代になすすべもなく敗退したした87年国鉄分割・民営化。

鬼の動労が首切りの手先になって生き残ろうとした時に、動労千葉がはげしくたたかい、日本の労働者階級のたたかいを世界に発信した。

フランス階級闘争。サルコジ。民営化・競争原理の導入でこれからフランスは激動に突入する。

生きていけないと移民労働者の息子たちは暴動でたたかった。

かれらを「社会のくず」とののしり、当選したらヨットで豪遊する支配階級。

日本だって同じ。石原都知事の選挙前の自信のない目をしばたたせるふるまい。

当選したとたん傲慢な記者会見。

歴史は、ドイツの失業は解決するとナチスはすさまじい勢いで登場してきた。

ドイツの党はただしく階級の党としてたたかったのか。

今はげしく問い直されています。

前置きがながくなりましたが、港南の労働運動から、共産党が壊滅していたあの暗黒といわれた時代に、日本でも労働者階級はこんなたたかいをやってたんか

 運動史研究 特集 関西における労働運動運動の土壌と本質

   人民戦線の先駆ー港南合同運動  藤井英男 著のまとめ

【Ⅰ】 港南の闘い

1935年大阪大正区の金属労働者たちがたちあがり36年総同盟と全労が合同し9万5千人を組織した

(1)港南地区とは

①現在の大正区。

当時の大阪では春日出・四貫島地区とならぶ二大金属工場地区。

大阪製鐵・戸畑鋳物・久保田鉄工。

②友愛会時代からの労働運動の中心地でした。

関西における左翼労働運動発祥の地です。

造船所の進水式の時には必ず赤旗が翻っていたそうです。

③1931年柳場溝事件から34年35年の状況

ⅰ)軍需工業の波がおしよせ、争議激発しました

「夜を賭けて」でビート武 青年が 朝鮮から大阪港に上陸するシーンおぼえてますか

大阪は東洋のマンチェスターとよばれメリヤスの半分、綿糸の25%綿織物の28%を生産していたのです

大阪は紡績業を中心に軽工業と船場などの糸へんの流通商業を軸に発展しました

今もイトチュウ・イトマン・丸紅などのビルがたちならんでいますね

ところが1930年以降、日本帝国主義の中国東北部侵略と一体で産業構造は一変していきます。

30年には軽工業42% 金属・機械27%が40年には7%、80%と重工業へと再編されていきました

この金属工場の密集地帯が港南と春日出・四貫島の住友系工場群でした

閑話休題

さて港のMTBおじさんはこのブログ開設のため港区と大正区の渡船めぐりをして写真とりまくりました

おすすめは千歳の渡船

ここにいくまでの日立造船とか中山鉄鋼の工場群が工場休みだけど迫力あります。

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