« 読谷村での米兵ひき逃げ事件での村民1500人の決起 | トップページ | 最悪 眼バチコの次は 風邪 この2ヶ月 ロクなもんじゃねー »

梅田労働学校 賃金・価格・および利潤

12月12日梅田の労働学校のレジュメです

賃金・価格・および利潤 全2回の前半を青年労働者が提起しました

参加した人の間での討論がおもしろかったのですが 再現する時間がないのでまずは提起を

梅田労働学校 12月  マルクス『賃金・価格・利潤』 

今『賃金・価格・利潤』を読む意味。

 『賃金・価格・利潤』の冒頭には、「いまや大陸では、ストライキという真の流行病と、労賃の値上げを要求する一般的な叫びとが蔓延している。この問題はわれわれの大会にもち出されるであろう。国際労働者協会の首脳部である諸君は、この重要問題について確固たる定見を持っているべきである」と述べられている。

これは、全世界で「生きさせろ」と賃上げストライキが激発する今日の情勢とまったく同じ。

日本では民主党・連合政権が登場した。

民主党政権は、自民党支配を崩壊させた労働者階級の怒りが革命に向かうことを許さず、それを全力で抑えつけるために登場した。具体的には、「連合」が権力の一角に食い込んだ。今体制内労働運動がやっていることは何か。

何より、国鉄1047名闘争を、この2月に終わらせようとしている。

自治労は「賃金二割カット提案」に始まり、「道州制の議論に参加する」といった。そして社会保険庁での首切りに対して、「准職員」の配置と同時に「日本年金機構労組」の結成大会に、分限免職対象の職員を排除して、解雇撤回闘争の始まりをつぶそうとしている。

電機連合は「派遣法の廃止に反対」と言っている。

労働者の闘いをたたきつぶすことが連合-民主党政権の狙いだ。

こういう労働運動幹部のあり方に、現場労働者は怒っている。そして、11月労働者集会には革命派の労働運動が国境を越えて断固として登場した。労働運動をよみがえらせ、腐りきった資本主義をひっくりかえす大チャンスがきている。

労働組合を革命派が握るか、反革命派によって制圧されるかという攻防が、一切を決する決定的要因になったということだ

われわれは勝利できる。2002年5月27日の臨時大会で、1047名闘争団への統制処分に反対した8名の労働者を公安警察に逮捕させたが、この弾圧への暴力行為等処罰法の適用を完全粉砕する勝利を勝ち取った

また、JRがこの間、動労千葉・動労水戸の闘いをつぶすために「検修全面外注化」という方針をだしたが、これは安全を破壊し尽くすものだ。これに大反撃を開始しよう。闘えば必ず勝利できるし、JR現場の労働者の怒りに必ず火をつけ、1047名闘争の勝利に向かう大きな一歩となる。

この本は、その「体制内労働運動」がまきちらす理論を徹底的にたたきつぶしているものだ。ともに学習しよう。

●労働組合は賃金制度の最終的廃止のために闘う存在

マルクスは、本書の結論として、次のように言っています。

「労働組合は、資本の侵害に対する抵抗の中心として大いに役立つ。労働組合は、その力を正しく使わなければ部分的に失敗する。労働組合は、現在の制度の結果に対するゲリラ戦的抵抗だけに自己を限定して、それと同時に現在の制度そのものを変える努力をせず、その組織された力を労働者階級の究極的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのテコとして使わないならば、全面的に失敗する」P113~114

つまり、①賃金闘争を始めとした資本との日常的攻防戦の不断の貫徹、②賃金制度の廃止-労働者階級の究極的解放に向けた闘い、を一個二重のものとして闘いぬくことが労働組合の任務だということ。

◇労働者階級の解放は、私有財産制の廃止=賃金制度の廃止によってしか実現されないことをはっきりさせ、労働者階級の基礎的団結体で、「資本の侵害に対する抵抗の中心」である労働組合が、賃金制度の廃止のために闘うのは当然だとマルクスは言っている。

連合や4者4団体派のような「体制内労働運動」は、「労働運動に革命運動を持ち込むな」と言うが、マルクスはそれは間違いだと言うこと。

動労千葉は『俺たちは鉄路に生きる3』で「『労働者が革命を起こして、お前たちに引導を渡してやる。労働者に権力をよこせ』という立場を持ってこそ、労働運動が前進していく時代が到来した」と述べている。これは、マルクスが『賃金・価格・利潤』で提起したことそのもの。

◇ 同時に、資本との日常的攻防を死活的に貫かなければ、労働者の究極的な勝利をかちとることはできない。マルクスは「もし彼ら(労働者階級)が、資本との日常闘争において卑怯にも退却するならば、彼らは、そもそももっと大きな運動を起こすための能力を失うであろう」と述べている。

●「資本との日常的攻防戦」と「賃金制度の廃止に向けた闘い」の一個二重性

「体制内労働運動」は「革命」を否定する一方で、賃金闘争も完全に放棄しはじめている。ここにマルクスの提起の意味がある。

そもそも、「資本との日常的攻防戦」と「賃金制度の廃止に向けた闘い」はそれぞれ別個のものとしてあるわけではない。労働者階級は資本と全面的・非和解的対立関係にあるわけだから、資本とのあらゆる闘いの中に「賃金制度の廃止に向けた闘い」がはらまれている。この両者を切断し、「賃上げ闘争は資本主義を前提に、あくまで資本主義の枠内で労働者の生活向上をめざすもの」であるとしてきたのが、体制内労働運動。

しかし、「資本主義の枠内での賃上げ闘争」では、労働者の根底的な怒りを結集することも、労働者の真の団結を打ち固めることもできない。むしろ、今日の情勢の中では、そうした立場で賃金闘争を闘うこと自身、不可能であることを、屈服を深める体制内労働運動の現実が示している。

今や体制内労働運動は、賃金闘争を放棄したにとどまらず、その敵対者として立ち現れている。 賃金闘争という領域を、もはや体制内労働運動に明け渡しておくことはできない。「資本との日常的攻防戦」(賃上げ闘争、賃下げ阻止闘争)を、その勝利のために全力で闘うことが、労働者の階級的団結を打ち固めることになる。

●第1インターの綱領をめぐる「賃金闘争有害論」との路線闘争

こうした状況にあって、『賃金・価格・利潤』を問題にする意味はどこにあるのか

『賃金・価格・利潤』は、1865年6月の第1インターナショナル中央評議会(ロンドン)で行われたマルクスの講演です。その前年に結成された第1インターの綱領や規約をめぐる討論がなされる中で、この時の中央評議会でウェストンは、次のような問題を討議に付すことを求めた

①一般に、賃金を高くするという方法によって労働者階級の社会的・物質的幸福は増大されるか

②ある業種で賃上げが行われれば、その結果、他の産業に悪影響を及ぼすのではないか(他の業種または産業の労働者の賃金が下げられることになるのではないか。したがって労働者階級の不団結・分裂を促進する)

このウェストンの主張は、けっして「取るに足らない」ものではなかった。ウェストンは、第1インターの綱領起草委員会を構成した3人の1人で、イギリスを代表するかたちで自分の作成した綱領案を提出した人です。だから、イギリスの労働運動指導者の中で、それなりの位置を持っていた人物です。

確かに、イギリスの労働運動の実践家たちの中で、ウェストンのようにあからさまに「賃上げ闘争否定論」「労働組合有害論」を唱える人が多数派だったとは言えない。しかし、古典派経済学の「常識」や空想的社会主義と結びついたウェストンの主張に真っ向から反論することは、そうたやすいことではない。その役割を引き受けたマルクスは、第1インター中央評議会で、ウェストンとの論争という形をとって、賃金闘争が労働者の究極的解放にとって不可欠の課題であることを明らかにした。

ですから、『賃金・価格・利潤』は、重大な路線対立をはらんだ第1インター中央評議会において、マルクスが行った代表討論と言うべきものです。

マルクスは、生まれたばかりの労働者の国際的団結が階級性を確立し、存続できるのか否か、つまり労働者が階級的解放に向けて闘いぬけるか否かをかけて、路線闘争を貫いたのです。

●「賃金闘争有害論」との闘争は、今日も労働運動の根本的な課題

ウェストンの論拠は、今日から見れば問題にもならないようなことが多々含まれている。しかし「賃金闘争をしても弾圧を招くだけで、労働者にとって有害無益」というウェストンの結論自体は、どうか。これは、今でも体制内労働運動指導部が絶えず垂れ流している屈服思想です。

資本は絶えず「賃上げをしても首切りを誘発するだけだ」と言います。体制内労働運動は、こうしたイデオロギーに根本的に屈服している。その根本にあるのは、賃金も雇用も、労働者にとっては運命のように受け入れるほかはない法則によって客観的に決まっているという考え方です。

こうしたイデオロギーと対決し、実際に職場で賃金闘争を闘うことによって、労働者は労働組合を自らの手に取り戻すことができる。マルクスは、「資本と労働者の闘争によって賃金の大きさは決まる」と言い切りました。この提起は、労働者階級と資本との利害が非和解であること、労働者階級が資本の侵害に対して全力で闘い、自らの生存を全うしつつ、賃金制度の廃止という究極の目的に向けていかに自己解放能力を形成していくかという問題と一体のものとして出されている。

労働者階級を解放の主体として据えきったからこそ、マルクスは当時、激しく闘われていた労働者階級の賃上げを求めるストライキの中に、革命の現実的な展望を見いだしたのです。

●ウェストンの主張とマルクスの批判

ウェストンの主張は、要約すると「賃金が上がっても、その分、物価が上昇するから、実質賃金は変わらない」ということ。

その主張の背後にあったのは、「商品の価格はその商品を生産した労働者の賃金によって決まる」という考え方でした。例えば「賃金を10とし、利潤率を賃金の100%とすれば、資本家は10をつけ加える。地代の率も賃金に対して100%とすれば、さらに10がつけ加えられる。その商品の総価値は30となる」ということです。

他方でウェストンは、実質賃金を問題にする。実質賃金とは、「支払われた名目賃金で買うことのできる諸商品の量」のこと。それは、諸商品の価格によって変わるから、「実質賃金の大きさは諸商品の価格によって決まる」ということになる。

つまりウェストンは、一方で「労働の価値が諸商品の価値を決定する」と言い、他方で「諸商品の価値が労働の価値(=賃金)を決定する」と言っている。これでは、商品の価値が何によって決まり、賃金の大きさがどう決まるのかは、まったく不明です。

価値とは何か

●商品の価値は何によって決まるか(P55~56、ここから本論。

そこでマルクスは、「商品の価値とは何か」「それはどう決まるのか」という根本問題を提起する。

一商品の価値・交換価値とは、「その商品が他のすべての商品と交換される量的比率」を意味する。これらの比率は限りなく多様です。

例えば、1㍑の小麦の価値は

   1㍑の小麦=0.5㌔の鉄

   1㍑の小麦=30個のみかん

   1㍑の小麦=10足の靴下

   1㍑の小麦=15本のボールペン

というように、ほとんど無限の他の商品に対する交換比率として現れる。

しかし、これらの式はいずれも「1㍑の小麦の価値」という同一物の表現にほかならないから、1㍑の小麦の価値は、いろいろな商品との交換比率という相対的なものではなく、小麦1㍑に内在するものであるはずです。

「1㍑の小麦=0.5㌔の鉄」という表現に即して言えば、1㍑の小麦の価値と0.5㌔の鉄の価値は、小麦でも鉄でもないある第三者に等しいことを表している。

では、このような形式で表現される共通の実体(「ある第三のもの」とは何か?

●商品の価値は、その生産に要した社会的労働の大きさによって決まる P57

生産された物の自然的性質はさまざまだから、「共通の実体」は社会的なものであるはずです。それは労働、しかも社会的労働としての労働です。諸商品の相対的価格は、それに費やされた社会的労働の分量によって決定される。

最終生産物としての商品の価値には最後に行われた労働だけでなく、それ以前に労働を加えられて生産された原材料や労働手段の価値も含まれます

●商品の価値は労働の生産力に規定される P61

 社会的労働の大きさは、「与えられた社会状態において、一定の社会的平均的な生産条件のもとで、使用される労働の与えられた社会的平均的な強度および平均的な熟練で、その商品を生産するに必要な労働の分量」を意味する。だから、労働の生産力が上がれば一定量の商品の価値は低下する。

●価格は価値の貨幣的表現 P64

価格とは、貨幣商品としての金銀の物量で表現された諸商品の価値のことだ。実はこの貨幣商品としての金銀の価値も、その生産に費やされた労働の量によって決定される。

あらゆる商品の価値は、金銀の量で表されるようになる。金銀は、貨幣商品として、その物量によって他のあらゆる商品の価値を表す一般的な等価物となる。

●あらゆる商品の価格は、平均的にはその価値どおりになる P66

生産の諸条件が個々の生産者にとって異なっていても、市場価格は同じ種類のすべての商品にとって同一です。市場価格は、平均的な生産諸条件のもとで一定の品物の一定量を市場に供給するために必要な、社会的労働の平均量を表現している。

確かに、市場価格は需要供給の変動によって、価値以上となったり以下となったりと動揺する。しかし市場価格は、価値どおりの価格(「自然価格」)に向かう傾向をもっている。あらゆる種類の商品は、平均的には、その自然価格で売られる。

●利潤は商品をその価値どおりに売ることによって得られる P67

すると、さまざまな事業の恒常的な利潤が、諸商品をその価値以上の価格で売ることから生まれると考えることはできない。

そこでマルクスは、商品をその価値で売ることによってなぜ利潤が得られるのか、という仕組みの解明に向かいます。

③労働の価値とは何か、賃金とは何か

●労働者が売るものは労働力(ここから第7節) P71

賃金とは「労働の価格」のことだと誰もが思っている。だが、労働者が資本家に売るものが彼の「労働そのもの」であり、賃金が「労働の価格」であるとすれば、次のような矛盾に陥る。

もし「労働の価格」があるとすれば「労働の価値」も存在しなければならない。では、「10時間分の労働」の価値はどれだけか? 「10時間分の労働には10時間の労働が含まれているから、その価値は10時間の労働に値する」というのでは、無意味な同義反復になる。そもそも労働者は、10時間の労働の対価として、10時間の労働が費やされた生産物に値する賃金を得ているのか?

労働者が資本家に売るものは、「労働そのもの」ではなく、労働力だ

「労働者が売るものは労働なのか労働力なのか」-これは何も、こむずかしい理論上の話ではない。

「労働者は労働力以外に売るものがない」というのは、労働者の置かれている現実そのものだ。労働者は、労働力を売ることによってその処分権を資本に引き渡す。資本の側からすれば、それは「買った労働力をどう使おうが俺の勝手」ということだ。つまり労働者は、資本の専制的な指揮・命令に従って労働することを強いられる。

本来は、何かを売るとすれば労働の生産物を売るのであって、労働そのものを売ると言うことは不可能です。

「もしいくらでも任意の期間にわたって労働力を売ることが許されたなら、奴隷状態が直ちに復活する」「このような売却は、もしそれが生涯にわたって契約されれば、その人を直ちに、彼の雇い主の生涯の奴隷たらしめる」

●労働力の価値 P76

労働力の価値も、他の各商品の価値と同じように、その生産に必要な労働の分量によって決定される。しかしこの人間の労働力は、人間の生きた個体のうちにのみ存在する。

  したがって、労働力の価値は、

1)現役の労働者を個体的に再生産するに必要な生活必需品の価値

2)将来の労働力を生殖をとおして世代的に再生産するに必要な生活必需品の価値

3)労働者が一定の熟練を獲得するために必要な一定分量の価値

によって規定される。ようするに「生活して子供を育てて、手に職をつける」ために必要な、最低限の賃金しか労働者には渡されない仕組みになっているということだ。

労働力という商品は、ほかの商品が工場で生産されるような形で、つまり労働過程において労働によって生産されるのではない。労働者は、労働の生産物である生活手段を消費することによって自己の生存を維持する。このことが労働力を再生産させる。つまり、「労働者が自己を生存させ生活を営み、子どもを育てる」人間的営みが、資本主義社会においては、資本家のもうけのため、「労働力の再生産費」として、資本の蓄積過程に取り込まれる関係にある。

利潤は「不払い労働」の搾取によって産み出されている。

第8節 剰余価値の生産

●剰余価値の根拠

第7節で「労働力」の価値が規定されたことを基礎に、この節では資本が剰余価値を搾取する仕組みが説き明かされます。

簡単に言えば、労働力を再生産するために必要な労働の分量と、その労働力から引き出しうる労働の分量とは異なるが、後者の方が前者より大きく、その差が資本家のものとなる、ということです。

例えば、1人の労働者の日々の必需品の平均量を生産するのに、6時間分の平均労働を要するとしましょう。この場合、労働者は自分の労働力を再生産するために日々6時間ずつ働かなければなりませんが、それは労働者がもっと長時間、働きえることとは別問題です。資本家は、労働力の1日分の価値を支払うことによって、その労働力を1日にわたって使用する権利を得ています。だから、資本家が労働者を12時間働かせるとすれば、労働者は、自分の労働力の価値を補填するために必要な6時間を超えて、さらに6時間働かなければならない。後者の6時間を剰余労働時間といい、これが資本の取得する剰余価値を形成します。

●資本の生産過程は、階級関係を再生産する

賃金は、労働力を再生産するために必要な生活必需品の価値を超えることはありません。労働者が一時的に貯蓄をすることがあっても、基本的にはそれは労働者の生涯のうちに生活費として消えていきます。労働者が生活費を超える貯蓄を累積させて、容易に資本家なり独立生産者に転化できるようであれば、資本主義社会は存続できません。

他方、資本家は生産手段や賃金に投下した価値を利潤とともに回収し、再び資本家として生産を営むことができる。こうして資本の再生産過程は、階級関係を再生産するのです。

●剰余価値率

剰余価値の率は、剰余価値と労働力の価値との割合として示されますが、それは剰余労働時間の必要労働時間に対する割合に対応しています。1日の労働時間が長くなれば、それだけ剰余労働時間も長くなり、剰余価値は増え、当然、剰余価値率も増大します。

第9節 労働の価値

●労働力の価値は、必然的に「労働の価値」として現れる

労働者が資本に売るものは労働力です。しかし、労働者が売るものは労働そのものであり、その対価として賃金を受け取るかのような形態が必然的に現れます。

「労働の価値または価格」という形態は、真実を覆い隠すものですが、そのような形で現れてくる必然性を持っています。労働力を売るといっても、労働力=労働する能力を労働者自身から切り離して売ることはできません。労働者が資本の指揮・命令に従って具体的・現実的に労働することによってしか、労働力商品を引き渡すことはできないからです。

また、賃金が支払われるのは実際に働いたあとです。このことから、賃金は労働の価格=労働の報酬として現れるようになります。

賃金の支払形態は現実にはさまざまな形をとりますが、時間賃金の場合、時間単価×労働時間という形で算定されます。こうしたことも、「賃金は労働の報酬」という外観を強めます。

●賃金形態は、資本家と労働者の本当の関係を覆い隠す

その結果、労働者の労働の一部分だけが支払われて他の部分は不払いであるのに、あたかも総労働が支払労働であるかのような外観が現れます。

賃金労働は、身分的人格的束縛のない「自由な労働」であり、また労働のすべてが支払われているかのような見せかけを持っています。しかし、この見せかけ=外観が歴史上特殊な形態であるとしても、奴隷制や農奴制のもとでの労働と同じように、「不払い労働」を支配階級によって奪い取られていることは同じです。

階級社会の発生以来、支配階級は他人の労働を搾取し、その上に自分たちの「富と文化」を築いてきました。直接に労働する人間の剰余労働を奪い取る形態の違いが、階級社会のさまざまな形態を規定しています。

資本主義のもとで労働者は、奴隷制や農奴制のもとでの労働と同じように、「不払労働」を支配階級によって奪い取られていることは同じだ。賃金制度は、階級的本質を隠蔽しつつ剰余労働を奪い取る形態であり、労働者は「賃金奴隷」にされてきた存在だ。賃金労働を中心軸に成立している資本主義社会は、まさに階級社会にほかならない。

第10節 利潤は商品を価値どおりに売ることによって得られる

商品の価値は、その商品に含まれている総労働量によって決定されます。ところで、商品に含まれている労働の一部分は支払い労働であり、一部分は不払い労働です。だから、商品をその価値で売ることにより、資本家は必然的に利潤を得る。資本家は、対価を要したものだけでなく、何の対価も要しなかったものをも売っています。こうして、正常かつ平均的な利潤は、商品をその現実の価値で売ることによって得られるのです。

第11節 剰余労働が分裂する種々の部分

●地代、利子、産業利潤

剰余価値は、地代や利子などに分解し、剰余価値の一部が産業利潤または商業利潤として事業を行う資本家の手元に残る。この産業利潤や商業利潤は、資本所有そのものから生まれる利子とは区別されて、事業を行う資本家があたかも自分の努力や才覚で稼いだものと観念されるようになります。

こうして「労働者の賃金=労働者の労働に対する報酬」、「資本家の利潤=資本家の『労働』に対する報酬」という観念が形成され、これに対応して「地代=土地所有に対する当然の報酬」、「利子=資本所有に対する当然の報酬」という観念が形成される。こうして搾取関係は覆い隠されてしまいます。

企業資本家による剰余価値の搾取こそが賃金制度の軸点

地代、利子、産業利潤は、商品の剰余価値(商品に含まれている不払い労働)のみから生じたものです。この剰余価値を直接に労働者から搾り取るのは企業資本家にほかならない。企業資本家と労働者との関係こそ、賃金制度全体の軸点をなしている。これは、職場生産点における闘いこそが、資本主義を覆す軸をなすということです

第12節 利潤・賃金および物価の一般的関係

●賃金が減少すれば利潤は増大し、賃金が増大すれば利潤は減少する「資本家と労働者とは、労働者の総労働によって測られた価値を分配するほかはないのだから、一方が多く得れば他方はわずかしか得ないし、一方がわずかしか得なければ他方は多く得るであろう。……賃金が下落すれば利潤は増大するであろう。また賃金が騰貴すれば利潤は減少するであろう">労働者は生きるために闘わなくてはならない

第13節 賃金を値上げし、またはその値下げを阻止しようとする企ての主要な場合

●生産力の変動と賃金<例えば天候不順によって農作物が不作になる場合、生産力は減少し、労働者の生活必需品の価格は上がります。賃金がそれに応じて上がらなければ、労働力の価格は価値以下に下落する生産力が増加し、労働者の生活必需品の価格が下落した場合、賃金が不変であれば、労働者の実質賃金は多少増えますが、それ以上に剰余価値は増大する。これは、労働者の相対的賃金、つまり資本家と比べた労働者の社会的地位は低下するということです労働者の生活必需品の価値は変わらなくても、金の価値が低下した場合、生活必需品の価格は騰貴します。賃金の貨幣額がこれに応じて上がらなければ、実質賃金は下落します賃上げ闘争は多くの場合、こうした変動の必然的な結果として起こる

●労働日の延長が資本の普遍的傾向

より多くの剰余労働を搾取するため、資本は常に労働日を延長しようとします。合理的限界を超えた労働時間の延長は、労働者の生活・生存を破壊する。賃金制度のもとで労働者が労働力を売らざるをえないのは、生きていくためであって、自分自身を破壊するためではない。労働力を売るといっても、健康や生命まで資本に売り渡したわけではないのです。しかし資本は、あくなき搾取のために労働者の全時間を支配しようとする。これに対して、労働時間の制限を始め、合理的限界内での労働条件を資本家に守らせるために闘うことは、労働者にとって自分自身とその階級を守るために絶対に必要なことです。

時間外労働に対する割増賃金は、資本による勝手な労働時間の延長を許さないための方法です。割増賃金を払えばいくらでも労働時間を延長できるというものではない。労働時間が一定の限界を超えれば、どんなに割増賃金が支払われても労働力の消耗を償いえなくなる。その極限が「過労死」です

資本は、放っておけば労働者を殺してしまうところまで搾取を強めます。そのため、労働時間を法律で直接規制することが必要になりました。労働者階級の闘いが労働時間の法的規制を国家と資本に強制したのです

人間は、自由にできる時間があってこそ、自らを発展させることができる。労働者にとって資本から自由な時間を確保することは、団結を固め、資本の支配と闘うためにも必要不可欠です

●労働の強度の増大

労働強化が限度を超えれば労働力の再生産は不可能となる。労働強化=合理化は必ず団結破壊という狙いをもって貫かれることを見ても、これとの闘争は労働者にとって死活的です

賃上げのための闘争のほとんどは、それに先行する生産力や諸商品の価格変動、労働時間の延長、労働強化などの必然的結果として起こります

労働力の価値は固定的なものではないし、あらかじめ価値どおりの支払いが保障されているわけでもない。労働力を売り賃金を受け取るということ自体(雇用)が安定的に保障されているわけでもありません。だから、労働者が闘う力を失って資本の言いなりになるなら、古代の奴隷よりはるかに不安定でみじめな状態を強制されます

労働組合は革命のために闘わなければ全面的に失敗する。

第14節 資本と労働との闘争とその結果

●賃金闘争は資本主義であるかぎり必然的 P103

この節の冒頭で、マルクスはこれまでの展開を、次のようにまとめている

「賃金引き下げに対する労働者側の周期的な抗争と賃金を引き上げさせようとする彼らの周期的企ては、賃金制度と不可分なものであって、それらは労働が諸商品と同一扱いされ、したがってまた物価の一般的運動を規制する法則によって支配されているという事実そのものによって引き起こされる」「賃金の一般的騰貴は一般的利潤率の低落を生じさせるが、諸商品の平均価格またはそれらの価値には影響しない

●労働者は平均すれば自分の労働力の価値を受け取るだけ P104

「他のすべての商品と同じように、労働についてもその市場価格は、長期間にはその価値に適応するであろう。したがって、あらゆる騰落にもかかわらず、また労働者が何をしようと、彼は平均的には彼の労働の価値だけを受け取るであろう

これは、「賃上げ闘争などやってもやらなくても同じ」ということではない。賃金を巡り争う当事者間の力関係が労働力の価値を決定する要因の一つになるが、労働力の価値が具体的にどの水準になろうとも、労働者が自分自身を維持・再生産するために必要な生活必需品の価値で労働力を売っていることに変わりはない、ということです。賃金制度を廃絶しない限り、資本家と労働者の階級関係は再生産され続けるのです

こう言うと、「賃金闘争はしょせん体制内の闘いなのか?」という疑問が生じるかもしれません

しかし、資本主義社会において労働者は、絶えず「生きさせろ」の闘いを貫かなければ、資本によって絶滅されてしまう。もちろん、労働者階級を生存させることができない資本主義など成り立ちませんが、資本は、搾取の限界を自分で設定するような合理的行動をとれる存在ではない。労働者階級にとって、賃金闘争は生き抜くために絶対に必要な闘いです。<

同時に、賃金闘争を闘う中で、労働者は労働者階級と資本との利害が非和解であることをつかみ、賃金制度の廃止という究極の目的に向けて自己解放能力を形成していきます。この立場に立って賃金闘争を闘えば、それは体制を根本から覆す闘いとなるのです

●労働力の価値は、生理的要素と歴史的・社会的要素によって決定されるが、究極的な限界を決定するのは生理的要素であるP105~106

労働力の価値は、生理的なものと、歴史的・社会的なものの2要素により決定されますが、その究極の限界をなすのは生理的要素です。生理的要素とは、労働者が自分自身を維持し再生産するために絶対に必要不可欠なレベル、つまり生きられないレベルがあるということです

しかし、この生理的限界にも、ある程度の弾力性があって、労働力の価値がどの水準で決まるかは、資本の攻撃と労働者の闘いのせめぎ合いによるところが大きい。

「労働日の究極的限界は、労働者の体力によって与えられている。……とはいえ、この限界には大いに弾力性がある。不健康で短命な世代の迅速な継起によっても一連の健康で長命な世代によるのと同じように、労働市場はちゃんと供給されるであろう

今日の資本主義は、子どもを産み育てることもできない現実を労働者階級に強いています。強搾取によって労働者が早死にしようがどうなろうが知ったことではないという資本の本質が、今ほどむき出しになっている時代はありません

労働力の価値を決定する歴史的・社会的要素は、生理的要素に比べてより大きな弾力性を持っています

「単に生理的な要素の他に、労働の価値はどの国でも、伝統的な生活水準によって決定される。それは単なる生理的生活ではなく、人々がそこで生み育てられる社会的諸条件から生じる一定の欲望の充足である」「労働の価値に入り込むこの歴史的または社会的要素は、膨張することも収縮することもありうるのであり、また生理的限界以外には何も残らないほどすっかり消滅することもありうる

●利潤の現実の大きさは、資本と労働との絶えざる闘争によってのみ定まるP107

 このように労働力の価値は可変的です。そうであれば、賃金の大きさと利潤の大きさがどの程度に確定されるかは、資本と労働との絶えざる闘争によってのみ決まります。資本家は常に賃金をその生理的最小限に引き下げ、労働日を生理的最大限に拡大しようとしているし、労働者はそれを反対方向に押し返そうとしている。事態は、両者の力の問題に帰着します

そこから考えると、社会主義協会派のように、賃上げ要求の「論拠」として「賃金は労働力の再生産費だから、労働力の価値どおりに賃金を払え」と言うのは、間違っている。これは、「労働者が生きられるように資本主義をきちんと運営しろ」という要求です。もちろん今日、生理的最小限以下の低賃金がまかり通っている現実はある。これに対しては、「生きていけるだけの賃金をよこせ」「それができないなら俺たちに権力をよこせ」という根源的な怒りをたたきつけるべきです

体制内労働運動が想定するような、労働者の生存を安定的に保障する「価値法則」などありません。「価値法則」は、労働者と資本家との血みどろの争いの中で貫徹される。だから労働者階級が求めるものは、価値法則そのものを廃絶することです。

●生産力の高度化と相対的過剰人口の生産。資本の有機的構成の高度化 P110~112

古典派経済学は、「資本の蓄積が進めば労働に対する需要は増大し、賃金は上がる。だから資本家と労働者の利害は一致している」と言ってきた。しかし、資本は絶えず生産力を増大させ、資本の有機的構成を高めるので、資本の総額が増大するほどには労働に対する需要は増大しません

生産力の増大とは、1人の労働者がより多くの固定資本(機械など)や原材料を使うということです。したがって、可変資本に対する不変資本、特に固定資本の割合は相対的に増大する。これを「資本の有機的構成の高度化」と言います

生産力の著しい高度化を伴う近代産業の発展は、資本に有利で労働者に不利な情勢をつくり出します

●実践的結論 P112~114

日常的闘争の徹底的な貫徹 

標準賃金獲得のための労働者の闘争は、賃金制度と不可分の事象であり、賃上げを求める労働者の闘いのほとんどは、「労働の価値」を維持しようとする努力である。労働者階級が資本との日常闘争を貫かなければ、労働者階級はより大きな運動を起こすための能力も失ってしまう

②労働者の究極的解放を根幹に据える

日常闘争において労働者は、結果と闘っているのであって、原因と闘っているのではない。労働者階級は、資本の絶え間ない侵略や市場の変動から生じる不可避的なゲリラ戦に没頭してはならない。資本主義は、労働者に窮乏を押しつけるが、同時に、社会の経済的改造に必要な物質的条件と社会的諸形態をも生み出している

労働者は、『公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金!』という保守的な標語の代わりに、『賃金制度の廃止!』という革命的なスローガンをその旗に書き記さなければならない

この結論を定式化して、マルクスは第1インターナショナル中央評議会に次の決議を採択することを求めました

「第一 賃金率の一般的騰貴は一般利潤率の低落を生じるであろうが、だいたいにおいて諸商品の価格には影響しないであろう

第二 資本制生産の一般的傾向は、賃金の平均標準を高めないで低めることにある

第三 労働組合は、資本の侵略に対する抗争の中心として立派に作用する。それは、その力の使用が適切でなければ部分的に失敗する。労働組合が現行制度の結果に対するゲリラ戦に専念して、現行制度を変化させようとしないならば、その組織された力を労働者階級の究極的解放、すなわち賃金制度の究極的廃止のためのテコとして使用しないならば、全般的に失敗する

●第1インター第1回大会の決議『労働組合、その過去・現在・未来

マルクスが提案した決議案の中身は、第1インター第1回大会で採択された決議『労働組合、その過去・現在・未来』に全面的に取り入れられています

  「労働組合はもともと、労働者の生活を少なくともまったくの奴隷状態以上に引き上げるような契約をかちとるために、このような競争をなくそうとして、またはできる限り制限しようとして自然発生的に生まれた。したがって、労働組合の直接の目的は、日常の諸要求、資本の絶えざる侵害からの防衛の手段、一言で言って、賃金と労働時間の問題に限られていた。労働組合のこのような活動は正当なだけでなく、必要なものである。これは、現在の生産制度が続く限り、やめるわけにはいかない活動である

「他方で、労働組合は、自分たちでは自覚することなしに、労働者階級の組織の中心となった。……労働組合は資本と労働の間のゲリラ戦のために必要なのであるが、賃金制度そのものと資本の支配を廃止するための組織された力として一層重要である

「労働組合は、もともとの目的は別として、今や労働者階級の組織的中心として、労働者階級の完全な解放という大きな利益を目指して活動することを学ばなければならない

これは、全階級的利害から個々の労働組合の路線・方針も打ち立てなければならないということです

●第1インター暫定規約前文

最後に、第1インター第1回大会で決定された暫定規約前文の重要な部分を確認しておきたい

「労働者階級の解放は、労働者階級自身の手で闘いとられなければならないこと、労働者階級解放のための闘争は、階級的特権と独占を目指す闘争ではなく、平等の権利と義務のための闘争、またあらゆる階級支配の廃止のための闘争を意味すること

労働する人間が労働手段すなわち生活源泉を独占する者に経済的に隷属していること、これがあらゆる形態の奴隷制、あらゆる社会的悲惨、精神的退廃、政治的従属の根底にあること

したがって、労働者階級の経済的解放が大目的であり、あらゆる政治運動は手段としてこの目的に従属すべきものであること

「労働者階級の経済的解放が大目的であり、あらゆる政治運動は手段としてこの目的に従属すべき」というのはきわめて激しい表現です。体制内労働運動はこれを根本から否定しています

労働者階級の解放は、労働者階級自身の事業です。労働者は救済されるべき存在ではなく、闘いによって自らを解放する主体です。そして、労働者階級の特殊階級的解放こそが「人間の全面的解放」をもたらすのです

|

« 読谷村での米兵ひき逃げ事件での村民1500人の決起 | トップページ | 最悪 眼バチコの次は 風邪 この2ヶ月 ロクなもんじゃねー »

マルクス主義」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/401536/32652417

この記事へのトラックバック一覧です: 梅田労働学校 賃金・価格・および利潤:

« 読谷村での米兵ひき逃げ事件での村民1500人の決起 | トップページ | 最悪 眼バチコの次は 風邪 この2ヶ月 ロクなもんじゃねー »