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天保山公園で花見

 残念ながらデジタルカメラが壊れてCMがアップできません。

 天保山公園には大阪市のシンボルマークとなった さばのしっぽの由来が公園の壁にしるされています。

 大阪の中心部に港から入る船に ここが深くて安全に航行できますよ という 澪つくしとして さばの尻尾に似た航路標が ここ天保山入り口に かかげられていたのだそうな

 海遊館は家族連れで満員みたいでした

 港のシクロオヤジは 今日は 竜宮テルメという 八幡屋のはずれの 掛け流しの 天然塩湯に 入って 極楽 

 家に帰って 泡盛 久米仙 35度の古酒で いい気持ちでブログを 更新しています

 さてこの間 戦後労働運動史の更新がまったくできませんでした

 日曜日ごとに いろいろ スケジュールが入って それどころでは ありませんでした

 パソコンも 故障して この2ヶ月 大変でした

 八尾北の住宅闘争にロードで行っての帰り 日本橋で ジャンク(くず)パソコンを衝動買いしてしまい 悪戦苦闘 ついに1万8千円で 3GHz 1GBのメモリーの モンスター・マシンで「チャングムの誓い」54話 54時間をまた(もう10回目近くになりますが)サクサクとGYAOで見続けて 更新するどころでは ありませんでした。

 責任者出て来い とここで若い人は見たことがないそうなので人生 幸朗・生恵幸子さんの夫婦漫才を紹介します。ウィキペディアから

人生幸朗・生恵幸子(じんせいこうろう、いくえさちこ)は、戦後に活躍した夫婦漫才のコンビ。

本拠地は大阪であったが、テレビ・ラジオを通じて広く全国に知られていた。歌詞・世相などにイチャモンをつけるボヤキ漫才は秀逸で、「責任者出て来い!」「出てきはったらどないすんねんな!」「謝ったらええのや」のフレーズと共に一世を風靡した。解散まで吉本興業に所属。

目次

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[編集] ぼやき漫才

人生幸朗・生恵幸子は「ぼやき漫才」の第一人者として知られている。「ぼやき漫才」は一般的なしゃべくり漫才とはかなり違い、その時代に話題になっている事柄についてとんちんかんな難癖をつけるというものである。ほかにこのジャンルを得意としたのは人生幸朗の師匠である都家文雄・静代、東文章・こま代などがおり、前者は主に社会風俗、後者は映画を題材にぼやいていた。

人生幸朗・生恵幸子は世相はもちろんのこと、特に当時のヒット曲の歌詞にケチをつけるという面白さで大衆の心をがっちり掴んだ。また、このコンビが活躍していた頃、その歌が幸朗にこきおろされれば歌手として一人前という風潮があったようだ。

1982年の幸朗の他界に伴い、この「ぼやき漫才」は後継者がいなかったため急速に廃れてしまうこととなる。弟子に柳井幸多朗(元吉本新喜劇団員)がいたがコンビを組むことなく幸朗死後、芸能界を去っている。

このコンビの漫才の典型的なパターンとしては次の通りである。まず出だしで幸朗が「浜の真砂は尽きるとも世にボヤキの種はつきまじ。」と石川五右衛門の辞世の句のもじりではじめる。すかさず、幸子が「キザなこと言うなこのハナクソ!」と言う。つづいて「(幸朗)わたしのこと、みなボヤキやあ、ボヤキやあ言うてねえ」「(幸子)当たり前や。誰かて言わはるわ。ボケ!」「(幸朗)しかし、みなさん、これは私がボヤクのやのうて、今の世の中が私をボヤかしまんねん」というパターンである。そして「まぁ皆さん聞いてください」と聴衆に語りかけ、その当時の世相・ニュースを鋭く切る。

  • 「(幸朗)電車の線路のそばに住んでて、警報機の鐘、あのカンカンカンというのがうるそうて寝られんいうて、警報機の線を切った奴がおる。そんなもん切ってどないすんねん。あの警報機の音で近所の住人の安全が守られとる。あのカンカンカンという音を聞いて、ああ空襲やなと思うんやないか」「(幸子)なにー?あほか」
  • 「(幸朗)満員のバスで、子供が前に飛び出したから、運転手急ブレーキかけよった」「(幸子)まあ。あぶないやないの」「(幸朗)幸い子供は無事やったんやけど、急ブレーキやったもんやさかい、吊り革持たんとボーっと立っとったオッサン、仰向けにひっくり返って、そのこける格好がおかしいと乗客大笑い、誰も手ェ貸してくれよらん!」「(幸子)え~っ!!そんならアンタも笑ろとったん?」「(幸朗)じゃかましいわい!!いやしくもワシは正義の味方や、そんな事見て黙っとれるかい!」「(幸子)まあ。えらいやないの。助けたげたンか」「(幸朗)黙れ~!!!話は最後まで聞け!!」「(幸子)何やねん一体!!」「(幸朗)助けたくても助けられるかい!!」「(幸子)なんで!?」「(幸朗)こけたン、わしじゃ!!」「(幸子)アホか!!」

田中角栄の金権政治などを批判すると観客の盛大な拍手をうけた。このときは幸朗は顔を真っ赤にして口泡激しくがなりたて、幸子に「あ~あ。デボチン(大阪弁で額のこと)に汗かいてェ」とつっこまれたりされる。

そして途中で幸子が一曲歌い、(幸子が歌う最中にも幸朗は細かい突っ込みをいれている) 幸子が歌のワンフレーズを歌い終わるころに幸朗が「とまれ~!ストップ!」と号令を出し歌を終わらせ、「善良なお客さんを前にして、何歌っとるかァ!・・・愚かなる女め」とやり込める。幸子が負けずに「○○の○○という歌やで!」と言い返す。すると幸朗は「そんなもン 言わいでもわかってるわい。」と口答えするので、幸子が「ホナ、ごちゃごちゃ言うなこのヨダレクリ(またはウズラ)!」と幸朗をやり込める。

その後幸朗が「このごろ、わけのわからん歌が多すぎる!」と歌謡曲の歌詞に次々と突っ込む。幸子は「そら!お客はん始まりましたでえ!」と言う。

  • 「リンゴは何にも言わないけれどリンゴの気持ちはよく分かる」(並木路子リンゴの唄」)→「リンゴが物言うか!リンゴが物言うたら果物屋のおっさんがうるそうてかなわんやないか」
  • 「昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういうわけだ」(井上陽水「東へ西へ」)→「当たり前やないか!そんなら昼寝すな!」
  • 「私のかわいいところどこでしょうか」(松本ちえこ「恋人試験」)→「己で勝手に探さんかい」
  • 「川は流れる 橋の下」(五木ひろし「愛の始発」)→「当たり前や。橋の上流れとったら水害やがな」
  • 「一所懸命育てた鳥でさえ窓を開けたら飛んでいく」→(五輪真弓「約束」)「当たり前やないか。鳥かて羽があんねん、飛んでいくよ。飛んで嫌なら金魚飼うとけ!」
  • 「波よ教えておくれ 私の明日はどこにある」(都はるみ「おんなの海峡」)→「長生きせえよ。波が物言うか!」
  • 「ときめくハートがその証拠人生が今キラキラと近づいてくる」(竹内まりや「不思議なピーチパイ」)→「何ぬかしとんねん。なんでわしがお前に近づいていかなあかん!馬鹿にすなぁ!」「人生が違うの!あほか!」
  • 「カリッと音がするほど小指を噛んで痛いでしょう 痛いでしょう」(西城秀樹「ブーメランストリート」)→「当たり前やないか!誰でも小指噛んだら痛いわ!」
  • 「あなたが噛んだ小指が痛い」(伊東ゆかり「小指の想い出」)→「誰が噛んでも痛いわ!」
  • 「探し物は何ですか」(井上陽水「夢の中へ」)→「ほっとけ!!」
  • 「見つけにくいものですか」(「夢の中へ」)→「知るか、そんなもん!!」
  • 「それより僕と踊りませんか?」(「夢の中へ」)→「馬鹿にすなぁ!」「誰が踊るか!!」
  • 「まだ探すんですか、踊りましょう」(「夢の中へ」)→「どつき回すぞ!!」
  • 「祭りも近いと汽笛は呼ぶが」(五木ひろし「ふるさと」)→「汽笛が物言いまっか。汽笛が物言うてみ、駅の近くの人らやかまして夜ねられへんがな」
  • 「洗いざらしのジーパン一つ」(「ふるさと」)→「ジーパン一つでうろうろすなよ!」
  • 「西の空が溜息ついた」(松山千春「残照」)→「西の空溜息ついてみい!九州の人、やかまして夜寝られへんがな!」
  • 「海は振り向かない」→(西郷輝彦「海は振り向かない」)「当たり前や!ほんなもん海が振り向いてみぃ、船ぇ元の港へ逆戻りじゃ!」
  • 「若葉が街に急に萌えだした」(天地真理「若葉のささやき」)→「若葉が燃えるか!あんなもン燃えて見ィ。消防署のオッサン忙しいてどもならん!」
  • 「君の瞳は1万ボルト」(堀内孝雄「君の瞳は1万ボルト」)→「人間の目ン玉電気か!」
  • 「猫ニャンニャンニャン、犬ワンワンワン、蛙もアヒルもガーガーガー」(あのねのね「ネコ・ニャンニャンニャン」)→「どついたろか!!もっと責任ある歌歌え!!」
  • 「かもめはかもめ」(研ナオコ「かもめはかもめ」)→「当たり前や!」
  • 「アケミという名で十八で」(千昌夫「アケミという名で十八で」)→「アケミ言うたら皆18かい!!うちの近所のアケミは68や!!」
  • 「そっとしときよみんな孤独でつらい黙って夜明けまでギターを奏こうよ」(千賀かほる「真夜中のギター」)→「近所迷惑やがな!夜明けまでギター奏いとったら『やかましわ!静かにしたらんかい!!』って怒鳴りに来るわ!!」

こうして歌のボヤキが最高潮に達した時、「(幸朗)責任者出てこい!」「(幸子)出てきたらどないすンのン」「(幸朗)謝ったらしまいや!」ここで幸子が一喝する。「(幸子)アホ!いつまでぼやいてんねや、この泥亀!」(あるいは「人が黙って聞いとったら、いつまでいちびってんの。ほんまに~!」または「いつまでしゃべっとんねん。このヨダレくり!」)「(幸朗)かあちゃん堪忍!」「(幸子)何がかあちゃんや!」「(幸朗)ごめんちゃい!」と言って両手を頭の上に持っていって股を開く。ここで幸朗が仮面ライダーの「変身!!」を叫んだり、間寛平のギャグを入れることもあった。観客の笑いは最高潮となる。

そして幸朗の締めくくりの演説をもってぼやき講座終了となる。「(幸朗)我侭勝手なことばかり申し上げまして(幸子ここで「わかってンのンかいな」の一言を挟む。)、お叱りの言葉もございましょうが、これは私の本心ではなく、相方生恵幸子の書いた筋書きでございます」「(幸子)嘘つけー、自分勝手にしゃっべてるんやないかぁ」「(幸朗)笑いこそ健康の栄養素!凝りと疲労の回復剤!」「(幸子)何ンや薬屋のオッサンみたいな事言うてんねエ」「(幸朗)笑え。笑え。笑う門には福来る。皆様のご健康とご発展とを心よりお祈り申し上げ、ボヤキ講座予定終了でございます」(時間により縮めたり、これよりも長くいうこともあり)わがまま好き勝手をしゃべって参りました。こんなおもろない漫才聞きとうないわ~い!というお叱りの言葉もなくご 静聴賜りまして誠にありがとうございました。」と締めることも(「これひたすら、私(わたくし)一人の人徳の致すところ~」のパターンもあり)

幸子のいう「泥亀!」とは、漫才終了の30秒前であることを幸朗に知らせるためのフレーズであったといわれる。テレビ番組の収録などの際、ADが客席の最前列で「終了何秒前」というカンニングペーパーを出すが、近眼だった幸朗は、舞台の上からカンペの文字がよく見えなかったそうである。そこで相方の幸子が、カンペが出されると同時に「泥亀!」というフレーズを入れ、幸朗に終了30秒前の合図をしていたそうだ。そして、幸朗はその合図に合わせてオチを入れ、持ち時間ぴったりで漫才を終えた。また、時折ストレートに「いつまでしゃべってンの。もう時間やし!」という場合もあった。

ぼやき漫才ではないが、大木こだま・ひびきが、似たようなパターンのネタを展開している。

  • (ひびき)「いやぁ忙しくて猫の手も借りたいですわ」(こだま)「猫に手はあらへん、アレは前足や!」
  • (ひびき)「恥ずかしくて顔から火が出ました」(こだま)「顔から火なんてどないして出すねん!見たことないわ、見せてみい!!」

など。

[編集] メンバー

人生幸朗(本名:比田孝三郎、1907年11月2日 - 1982年3月4日)は、夫。ボケ担当。大阪府東大阪出身。

20歳の時の芝居一座に入門。24歳の時に荒川芳丸に入門し、「荒川芳蔵」を名乗る。後に、ボヤキ漫才の都家文雄に入門、「都家文蔵」に改名。この時に、ボヤキ漫才のスタイルが整った。1940年に吉本興業に入社。この時に、高田田鶴子とコンビを組む。第二次世界大戦中は、満州などでも興行を行った。

戦後、1947年に「人生航路」と名乗り、1954年に庭野千草(後の生恵幸子)と組む。長年売れなかったが、1955年に人生幸朗と芸名を改名してから人気が出始める。またこの頃より、ライフワークとでも言うべき各地の矯正施設に慰問を始める。この慰問は、警察・自治体などから多大に評価され、後発の芸人たちの模範となった。幸子が病気療養中の1973年ごろ、テレビの深夜番組『ナイトパンチ』に単独でレギュラー出演して若者の間に、そのキャラクターがブレイク。その後、幸子復帰後もテレビや舞台などでも活躍し、人気を得ていたが、1982年2月、枚岡神社節分のゲストで出演して風邪を引き入院をし、快方に向かっていたが、体調が悪化し急性肺炎の為、この世を去る。享年74。死後追悼特番で、入院先の大阪赤十字病院の旧病棟(病舎)に芸人数人がお見舞いに訪れたシーンが放送されたが、自身の入院している姿を見た当時の視聴者はショックがあったに違いない。

常に牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけ、直立不動で、熱が入ってくると肩を怒らし手を振りあげる。凄い迫力と説得力を持って聴衆に語りかけるその漫才は、今も根強いファンを持つ。またその漫才からも分かるとおり極めて誠実な人柄で後輩など多くの人々から慕われ、「人生さん」「人生の師匠」と珍しく屋号亭号で呼ばれていた。

生恵幸子(本名:赤田松子、1923年9月25日 - 2007年2月5日)は、妻。ツッコミ担当。大阪府出身。

夫よりも16歳も若く、美しい容姿を持つ幸子は、その威勢のよい清々しいツッコミと漫才の途中に挿入するお世辞にも上手いとは言えない歌で、夫と同様強い存在感を示していた。また近視が強かった幸朗に時間配分を知らせていたりなど、このコンビを陰ながら支えてきた。夫の死後はテレビのコメンテーターや西川きよしらと慰問漫才を行ったり、太平サブローと人生・幸子コンビを復活させたこともあったが人生幸朗の思い出を語るような仕事以外はしなくなっていったこともあり、近年はメディアへの露出もほとんどなかった。

2007年2月5日、脳出血後遺症のため大阪市内の病院で死去。享年83。2002年に脳出血で倒れてからは闘病生活が続いていたという。法名は福徳院釈尼幸恵。

余談ではあるが、1970年代に夫婦そろって「人生ぼやき節」というコミックソングテイチクから発売した。それは幸子が歌い、後から歌詞を幸朗がけなすというお馴染みのスタイルである。

[編集] 受賞歴

[編集] 補足

  • 吉本興業の後輩で、漫才師・タレントの大平サブローは、横山やすし浜村淳物真似で人気者になったが、人生幸朗の物真似も関西では大変有名である。『上方お笑い大賞』授賞式典で、人生幸朗の死去10回忌の追悼の為、人生幸朗のメークをしたサブローと生恵幸子のコンビによる『復活!人生幸朗・生恵幸子ボヤキ漫才』が披露された。サブローは生前の人生幸朗そっくりにものまねを行い、最初「何を言うとんのや!」と突っ込んでいた生恵幸子であったが、段々と鼻声となり最後には「お父ちゃんが帰ってきたみたいや」とTVで放送(『上方お笑い大賞』授賞式は生放送)されている場でありながら涙を流した。以降サブローと生恵幸子は親しく交流する様になったという。なお、吉本興業から発売された人生幸朗のキーホルダーや、生前の映像を使用した和歌山マリーナシティテレビCM1994年)で人生幸朗の声の吹き替えを全てサブローが担当している。また一度だけサブロー演じる人生幸朗と生恵幸子のテレビコマーシャルが製作されている。
  • 流行の歌謡曲をネタにする事は、歌手や歌のファンから非難される事もあったが、ネタにされた歌を唄っていた歌手や作詞家の中には、漫才に取り上げられるのを喜んでいた者も多かったと云う。歌手の堀内孝雄は、『君の瞳は1万ボルト』の歌詞がネタにされたとき「俺達もこれでメジャーになった」と非常に嬉しかったと云う。(関西テレビさんまのまんま』でのトークによる)但し、山口百恵の歌の歌詞をネタにした際には、心無いファンから剃刀レターが送りつけられ、彼女の歌詞をネタにするのは封印したらしい。(朝日放送ナンバ壱番館』再現ドラマより)
  • 人気作詞家だった阿久悠(故人)は、ピンク・レディーの『透明人間』を作詞する際、「透明人間現る」という歌詞に対し、人生幸朗に「姿の見えん透明人間が現れるわけないやないか!」と突っ込まれることを見越してか、サビの部分に“ツッコミ”的な歌詞も取り入れた、と生前語っていた(そのせいか、『透明人間』が人生幸朗・生恵幸子の漫才で突っ込まれることはなかったらしい)。

大器晩成型だっただけに芸に関しては人一倍厳しかった。なんば花月ではトリをとることが多かったが、ある日、モタレ(トリのひとつ前)に出た人気絶頂の横山やすし・西川きよしが1時間近く客を笑わせた。このときの人生の顔つきは尋常なものでなく、舞台に出るやこれも1時間ぼやきまくって客を爆笑の渦に巻き込んだ。幸子は体調が悪かったが、腕が震えるのを承知で最後まで突っ込みを入れていた。

[編集] 演じた人物

1991年放送『あヽ愛しき家族』(よみうりテレビ木曜ゴールデンドラマ」、脚本・桂三枝)にて

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受信: 2008年4月29日 (火) 08時04分

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