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バクダットから撤収せざるをえないリバーベント

 かってすさまじい圧制の韓国からKT生からの通信を私たちは必死で読み、連帯の心を通わせました。
 イラクへの米軍の侵略のなかから同じように発せられたバクダット バーニングのリバーベントは今バクダットを離れざるをえない。内戦!なにがブッシュのいう民主主義か!イラク人民の魂の叫びに連帯!
Baghdad Burning

バグダードバーニング by リバーベンド

... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。

2007年9月6日 木曜日

我が家を離れて・・・

2ヶ月前、私たちはスーツケースに荷物を詰めた。私の一つきりの大きなスーツケースは6週間近くの間、寝室に置きっぱなしだった。着るものや身の回りのものをぎっしりと詰め込んだので、スーツケースを閉じるのに、お隣りの6歳の子とE.に手伝ってもらわないといけなかった。

このスーツケースに荷物を詰めるほど難しいことは、これまでほとんどやったことがない。まさに「ミッション インポッシブル」。「R君、さて今回の君の任務だが、30年近くの間に君がため込んだ品々を調べ、必要不可欠なものを決定することにある。この任務の困難な点は、選んだ品々を 1メートル×70センチ×40センチ の空間に収めねばならないところだ。このなかには、もちろん、君が今後数ヶ月着用することになる衣服や、写真、日記、ぬいぐるみ、CDなど、私的な記念品も含まれる」

荷物を詰めては中身を出すのを4回やった。中身を出すたびに、どうしても必要というわけじゃないものは排除すると自分に誓った。荷物を詰めなおすたびに、前よりたくさんの「がらくた」を付け加えてしまった。一月半経ったところでE.がたまりかねてやってきて、私がしょっちゅう中身を更新したくならないように、かばんをしっかり閉めてしまおうと主張した。

ひとり一つずつスーツケースを持っていくというのは、父が決めたことだ。みんなで準備しかけていた種々雑多な思い出の品々の入った箱を父が一瞥し、最終決定が下された。同型の大きなスーツケース4つを買った。家族のみんなにそれぞれ一つずつ。洋服ダンスから引っ張り出した5つ目のちょっと小さなスーツケースには、卒業証明や身分証明書類など、家族全員に必要な書類を入れた。

私たちは待って・・・待って・・・待った。6月中旬から下旬に出発する予定だった。その頃にはさまざまな試験もすんでいるだろうし、叔母と二人の子どもも一緒に脱出するつもりだったから、全員にとって一番都合がいい時期だと思ったのだ。最終的に「出発日」に決めたその日、2キロと離れていないところで爆発があり、外出禁止令が出た。旅は一週間延期された。次に旅立つ予定の日の前夜、私たちを国境まで乗せていくGMC[ゼネラルモーターズ社の車]を持っている運転手が旅を断ってきた。兄弟が撃たれて亡くなったのだ。再び、出発は延期となった。

6月の終わりごろ、荷造りしたスーツケースに座りこんで泣いてしまったような時もあった。7月初めになると、もう決して出発することはないだろうと確信していた。私にとって、イラク国境はアラスカの国境と同じくらいはるか遠くにあるんだと思い定めた。飛行機でなく車で脱出すると決めるまでに2ヶ月以上かかった。行き先をヨルダンではなくシリアに決めるのにもう1ヶ月かかった。出発日程を組みなおすのに、いったいどれだけかかるだろう?

一夜にして事態が変わった。おばが胸躍るニュースを電話で伝えてくれた。おばの近所に住む家族が、息子が脅迫されているので48時間以内にシリアに向けて発つというのだ。そして、別の車に乗って道をともにする家族を求めているという。ジャングルのガゼルと同じように、集団で旅をするほうが安全なのだ。それから二日間、あわただしく動き回った。もしかして先々必要となるかもしれないものが全部ちゃんとそろって荷物に入っているかチェックした。うちに家族ぐるみで住んでくれることになっている母の遠戚の人に、出発の前夜に来てくれるように打ち合わせた(他人に取られてしまうので、家を空けたままにして発つわけにはいかない)。

涙でいっぱいのお別れだった。旅に出る朝、おばとおじがさよならを言いにきてくれた。厳粛な朝だった。最後の2日間、私は泣かないようにずっと心の準備をしていた。私は言い続けた。泣かないわ、だって戻ってくるんだもの。戦争の前にモスルやバスラに行った時みたいなちょっとした旅なんだから、泣かないわ。無事に戻ってこれると自分自身に請合ったというのに、出発前の数時間、喉の奥には大きな塊がつかえたままだった。そんなつもりはないのに、目は赤くなり、鼻水が流れた。私はアレルギーのせいよと自分自身に言った。

出発前夜、私たちは眠らなかった。やっておかないといけないちょっとしたことがあまりにたくさんあるように思えたからだ・・・その上電気がまったくこないときた。地域の発電機は動かなかったし、「国家の電気」は絶望的な状態だった。眠るどころじゃなかった。

我が家で過ごした最後の数時間はぼうっと霞んでいる。旅立ちの時がくると、私は部屋から部屋へと歩いてなにもかもにさよならをした。高校から大学の間ずっと使っていた机にさよならと言った。カーテンとベッドとソファにさよならと言った。子どものころ、E.と二人で壊してしまった肘掛け椅子にさよならと言った。食事の時にみんなが集まり、宿題もやった大テーブルにさよならと言った。かつて壁にかかっていた額入りの写真の幻影たちにさよならと言った。額はもうとっくに壁からはずされしまわれているからだ。でも、どの写真がどこにかかっていたか、私は知ってる。いつもみんなが夢中で遊んだくだらないボードゲームにさよならと言った。アラブ版のモノポリーで、カードもお金も欠けているけれど、誰もが捨てるにしのびなかったものだ。

いまの私にわかっているように、その時だって、どれもただの物にすぎないってことはわかっていた。人間のほうがずっと大切。だけど、一軒の家はひとつの歴史を伝える博物館のようなものだ。カップ一つ、ぬいぐるみ一つを見ても、思い出の詰まった一章が目の前に開かれる。私は突然、置いていってもいいと思えるものが自分で思っていたよりずっとわずかしかないことに気づいた。

ついに午前6時がきた。外にGMCが待つなかで、私たちは必要なものをかき集めた。熱いお茶を詰めた魔法瓶、ビスケット、ジュース、オリーブ(オリーブ?!)その他。オリーブを持って行こうと言ったのは父だ。おばとおじは悲しげに私たちを見守っていた。この表情をこれ以上何と言っていいかわからない。親戚や友人たちが国を去ろうとしているのを見て、私が目に浮かべたのと同じ表情だった。怒りを帯びた無力感と絶望感。どうしていい人たちが出て行かなくちゃいけないの?

いざ出発という時になって、私は泣いた―泣かないと約束したのに。おばも泣いた・・・おじも泣いた。両親は冷静でいようと努めていたが、さよならと言う時の声が涙で震えていた。いちばん嫌なのは、さよならを告げる時、この人たちと再び会うことができるだろうかと思うことだ。おじは、私が頭に被ったショールをしっかりとまきつけて「国境にたどり着くまではずしちゃだめだよ」ときつく忠告してくれた。車が車庫から出る時、おばが後ろから走り寄ってきて、鉢一杯の水を地面にぶちまけた。これは、古くからのしきたりで、旅人が無事に帰ってこられるようにと願って行うものだ・・・いつの日か。

旅は長く、単調だった。ただ、覆面をした男たちがやっている検問所が二つあった。男たちは身分証明を見せろと言い、パスポートをざっと見て、行き先を尋ねた。後続の車も同じようにされた。検問所は恐ろしかったけれど、私は視線を合わせないようにして質問に丁寧に答え、小さな声で祈りを唱えるのが最上の方法だと知っていた。母と私は念のため、宝飾品に見えるものを身に着けないよう気をつけていた。二人とも長いスカートをはき、ヘッドスカーフをかぶっていた。

ヨルダンを除けば、シリアはビザを持たない人々を受け入れている唯一の国だ。ヨルダン人は避難民に対して酷くあたるようになっている。多くの家族がヨルダン国境で送り返されたりアンマン空港で拒絶されるのを覚悟の上でヨルダンに向かう。たいていの家族にとってこれはリスクが高すぎる。

一緒にいた運転手が「コネ」を持っていたのにもかかわらず、何時間も待たされた。「コネ」というのは、彼が何度もシリアに行ったり来たりしていて、国境を無事に越えるには誰を買収すべきか、よく知っていたという意味だ。私は不安な思いで国境に留まっていた。バグダードを後にして1時間ほど経ったころから涙は止まっていた。汚れた街路、廃墟となったビルや家、煙の立ち込める地平線を見るだけで、より安全なところに行くチャンスがあることがどんなに幸運なことか、はっきりとわかったのだ。

バグダードの外に出た頃には、心はもう出発してしばらくの間のようには痛まなくなっていた。国境ではまわりの車に不安になった。いつ爆発するかわからない多くの車に囲まれているのが嫌だった。私の内のある部分はまわりの人たちの顔を観察したいと思った。ほとんどがふつうの家族だった。でも、私の別の部分、やっかいな事にかかわらないようこの4年間訓練された私は、目を上げないでと自分に言った。もうすぐ終わるのだから、と。

ようやく私たちの番になった。金が手渡されている間、私は車の中で身体をこわばらせて待った。パスポートを調べられ、ついにスタンプが押された。私たちは通過するよう誘導された。運転手は満足気ににっこりし、明るく言った。「楽な旅でしたね、アルハムドゥリッラー[神さまのおかげで]」

国境を越えて最後のイラク国旗を見たとき、涙がまた流れてきた。国境を越えている間、車の中ではだれもが黙っていて、脱出の物語の数々を語る運転手のおしゃべりだけが響いていた。隣に座っている母をそっと見ると、やはり涙を流していた。イラクを離れる際に言葉はひとつも出てこなかった。泣きじゃくりたかったけれど、赤ん坊のように見えるのは嫌だった。この4年半地獄のようになっていたところから抜け出せることを感謝していないと運転手に思われたくなかった。

シリア国境もほとんど同じくらい混雑していたが、ずっとリラックスした雰囲気だった。人々は車の外に出てストレッチしていた。お互いに気づいて手を振ったり、悲惨な話や噂話を車の窓越しにやりとりしている人もいた。なにより重要なのは、私たちはみんな平等だということだった。スンニもシーアも、アラブ人もクルド人も・・・シリア国境要員の前では私たちはみな平等だった。

私たちはだれもが難民だった―金持ちも貧乏人も。難民はみな同じように見えた。どの顔にも独特の表情があった。悲しみの混ざった、不安を帯びた安堵の表情。どの顔もほとんど同じように見えた。

国境を越えてから数分の間、心は極限に達した。安堵と悲しみがいちどきにどっと押し寄せて私を圧倒した・・・たった数キロ、たぶん20分くらい離れただけで、こんなにもはっきりと生と死が分かれるとは。

だれひとり見ることも触れることもできない国境が、車両爆弾や民兵や殺し屋集団と・・・平和と安全の間に横たわっているなんて。今も信じるのがむずかしい。ここでこの文を書きながら、どうして爆発音が聞こえてこないのかしらとふと思ってしまう。

飛行機が頭上を通過する時に窓がガタガタいわないのが不思議だ。黒装束の武装集団が今にもドアを破って入ってきて私たちの命を奪うのではという思いからなんとか抜け出そうとしているところだ。道路封鎖や早期警戒機[レーダーを取り付けた軍用機]やムクタダの肖像画などなどがない街路に目を慣らそうとしている。

車でほんのちょっと行った先には 、こういったものすべてがあるというのに。

午前0時6分 リバー

(翻訳:いとうみよし)

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